CHAPTER 3 – 花き市場の戦後史

4. 戦後の鉢物市場

戦後になると、愛知県豊橋市を周辺に、施設園芸による観葉植物生産が増え始めています。
前出のヤマヱ生花では、昭和20年代後半より、ひと月に1回、パーム大市を開催しましたが、そこでは八丈島などから入荷するヤシ類の根巻きものに混じって、ポトスやハナキリンなどが取り引きされていました。
その取引では生産者が親木として購入するケースが多く、当初は高値で取り引きされていましたが、それも昭和30年代に入ると大暴落することになります。

その大暴落に危機感を抱いた生産者は、一般消費者への販売に活路を見いだすべく、一致団結して日本観葉植物株式会社という鉢物専門市場を創業したのです。その会社は昭和34年に名古屋と東京に市場を開設しました。

当初は開市日に生産者が市場に詰め、観葉植物の管理方法などを説明しながら販売に努めたといわれています。同様にして、昭和37年には名古屋市に洋ラン専門の鉢物市場「日本洋蘭株式会社」が誕生し、その1年後には東京蘭葉株式会社が生まれています。ちなみに、観葉植物や洋ランが一般化するのは昭和39年の東京オリンピック以降のことです。

戦後の鉢物は、昭和 35年~40年のサボテンブームを契機に大衆化の道を歩み始めます。
サボテンに続いてアナナスやカンノンチク、サツキのブームが訪れ、昭和50年代には観葉植物がグリーンインテリアとしてもてはやされました。

また、ギフトに花を贈ることは昭和40年代以降に一般化していきますが、昭和50年代には観葉植物がサマーギフトに利用され、高嶺の花として知られた洋ランも、組織培養が普及した昭和50年代に大量供給されるようになり、ギフト需要を対象に急速に普及していきます。この結果、鉢物の消費は昭和40年代~50年代に大きく拡大し、それとともに鉢物専門市場もその地位を確立していきました。

一方、鉢物は当初生花市場で販売されていましたが、生花市場での扱いはほとんど伸びず、花き市場は生花市場と鉢物市場の、まったく異質な2タイプに分化することになりました。

5. 花き市場の整備、統廃合

昭和48年に卸売市場施行令が公布されると各地の中央卸売市場に花き部が併設されていくことになります。
その先陣を切ったのは、仙台市中央卸売市場花き部と横浜市中央卸売市場南部市場花き部です。いずれも、昭和48年に営業を開始しました。それ以降、神戸市(昭和49年)、広島市(昭和56年)、川崎市北部(昭和57年)、岡山市(昭和58年)、高松市(昭和60年)など、各地の主要都市において中央卸売市場が開場していきます。しかし、市場流通に劇的な変化をもたらすことになったのは、昭和63年以降に開設された東京都中央卸売市場です。

第6次卸売市場整備計画をみると、従来、都内にある41の花き市場を、23区内の5カ所と多摩地区の、計6つの中央卸売市場に整備、統廃合するべく計画しています。
市場規模を大型化することで、集荷力を強化し、供給や価格の安定を目指そうというものですが、その第一号として北足立市場(昭和63年)がオープンし、それ以降、大田市場(平成2年)、板橋市場(平成5年)、葛西市場(平成7年)、世田谷市場(平成13年)と続いています。

多摩地区については適地が見つからず計画は中止されていますが、7社8市場がふたつの卸売会社に統廃合して入場した大田市場花き部は東洋一の取扱規模を誇ることになり、それ以降、大規模流通の時代に突入しました。

東京都において市場整備が進む一方で、名古屋や大阪においても市場整備が進みましたが、この2地域にでは、中央卸売市場として整備する手法を選ばず、地方卸売市場のまま整備統廃合が進みました。

まず、大阪においては、大阪府と卸売業者などが出資する第三セクターの管理団体を作り、そこが開設した卸売市場に卸売会社が入場する形をとって、市場整備を進めました。
すなわち、大阪鶴見花き地方卸売市場は大阪府と大阪市、業界団体などが出資する大阪鶴見フラワーセンターが開設した市場であり、大阪泉大津花き地方卸売市場は大阪府と泉大津市などが出資する大阪泉大津フラワーセンターが開設する市場です。

一方、名古屋地区では、生花市場の整備は進まずにいるものの、鉢物市場については卸売会社や運送業者などが事業協同組合を作り、そこが開設した市場に統合した卸売会社が入場し、豊明花き地方卸売市場が生まれました。
現在、中央卸売市場の22市場に花き部が開設され、そこに入場する花きの卸売会社は30社に届こうとしています。また、年商100億円を超える卸売会社が約10社生まれているように、市場の統廃合をともなう市場整備によって、市場の大型化が急速に進みました。