CHAPTER 2 – 花き市場の誕生

4. 太平洋戦争前夜

昭和時代に入ると、昭和4年(1929年)に始まった世界大恐慌を契機にして、昭和6年には満州事変が勃発し、昭和12年の日中戦争を経て、年々戦時色を強め、ついに昭和16年には真珠湾攻撃から始まる太平洋戦争の時代に突入していきます。

それまで順調に伸びてきた花の生産や消費は昭和16年に発令された作付禁止令(作付統制令)によって大きく後退することになります。
ガラス温室は光るので、空襲の標的にされることからすべて取り壊され、いっぽうで贅沢品、嗜好品の類は生産を制限されることとなりました。また、戦時下にあることから花を生産するものは非国民と見られましたが、その偏見は戦後しばらく続くことになります。

このように戦時色が年々強まる中で、最初の花卉市場である高級園芸市場組合も終戦を前にその歴史を閉じており、それ以外の花卉市場も大半が半ば休業を余儀なくされたのです。
昭和19年には現在の兵庫県生花株式会社が創業していますが、これなども経営が難しくなった時代に合併することで生き残りを図ろうとした結果ではないでしょうか。

しかし、贅沢品とされる花は葬儀や仏壇を飾る花でもあり、切り花の流通がまったくゼロになることはなく、いくつかの花卉市場は細々と営業を継続していました。また、同じ昭和19年には、島津忠重公爵を初代会長とする社団法人園芸文化協会が設立されています。

当時のことを知る花き業界の人たちはすでに少なくなっていますが、栽培を禁止された花の種苗を維持するために、近くの里山にこっそりと植えて管理していたとか、取り壊した温室のガラスを土に埋めておいたなど、その人たちの苦労話も多いのです。
いずれも、戦後に花の栽培を再開しようとした人たちです。