CHAPTER 3 – 花き市場の戦後史

1. 戦後の生花市場の復興と発達

昭和20年、終戦とともに作付統制令などが廃止されましたが、太平洋戦争によって各地の都市が空襲で焼かれてしまい、終戦後しばらく、日本の農業は食糧増産をかけ声のもと、花き生産の復活はゆっくりしたものでした。
一方、連合国軍(GHQ)が駐留した地域では連合国軍向けの花き需要が生まれ、それとともにブーケを初めとした米国風のフラワーアレンジメントが導入され、日本人の生活習慣に根付くきっかけになりました。

昭和20年代には戦前に生まれた生花市場の多くが業務を再開するとともに、上野生花や立川生花、仙台生花、岡山生花、青山生花、ヤマヱ生花などが創業を開始しています。
しかし、20年代前半は十分な花卉生産はなく、山採りの草花や切り枝が取引の主流であり、フラワーアレンジというよりも生け花向けや仏事向けの需要が中心でした。

一方、バラやカーネーション、洋ランなどは特に少なく、カーネーションの品種’コーラル’も当初は1本の花から花弁を1枚1枚解し、それを組み直して2本にして使ったという逸話が残っており、施設栽培の花は特に高値で取り引きされていました。
このため、戦前に施設を利用していた生産者は、戦後になると急速にガラス温室を立て直していきました。

また、1950年(昭和25年)に勃発した朝鮮戦争が、日本の経済を立ち直らせるきっかけとなり、また多くの米兵が日本に来たことも花の需要を拡大させることになりました。

2. 鉢物専門市場の台頭

鉢物専門市場が誕生するのは、昭和30年前後から昭和45年くらいまでが中心です。
切り花がGHQ向けの需要や仏事向けの需要を背景に、生産や流通が戦後間もなく復活していったのに対して鉢物の必需性は小さく、このことがこのような遅れとなって現れたのでしょう。

とは言いながらも、20年代後半には鉢物消費も徐々に上向いていったようです。
昭和27年には東京都西部花卉農協(荻窪園芸市場)が創業を開始し、それに刺激されるように昭和30年に久留米花卉園芸市場がスタートしています。後者は「花卉園芸市場」というように切り花と鉢物を扱う市場ですが、前者は完全なる鉢物専門市場です。

鉢物市場の誕生におけるもうひとつの流れがあります。それは観葉植物を中心にしたものです。
観葉植物は洋ランと同じく、戦前は一部の富裕な人たちに楽しまれる植物でしたが、その時代に、すでに貸し植木業者が観葉植物を扱っていました。

そもそも、観葉植物は明治、大正の時代までは観賞植物と呼んでいました。
大正の終わり頃、日本橋にあるフルーツパーラー「千疋屋」のサロンで観葉植物と呼んだのが最初ですが、その前後には観葉植物の生産・供給が始まり、鹿児島県の指宿市周辺や八丈島などに当初の産地が生まれています。

3. 卸売市場法と中央卸売市場

最初に生花市場が生まれたきっかけは、関東大震災と中央卸売市場法の施行であると前記しました。ですが、その中央卸売市場法は大正7年の米騒動の反省をもとに生まれ、生鮮食料品の安定供給を目途に制定されたものであり、前記のように花き類は対象外とされていました。

その法律は戦後も生き続けていましたが、昭和46年に改正され、新たに卸売市場法として公布されました。主な改正点は、地方自治体が開設する中央卸売市場に加えて、私企業や各種団体が開設する「地方卸売市場」と一定規模未満の「規模未満市場」という分類をもうけ、様々なタイプの市場を市場法の管轄下に置こうとしたことです。

また、同市場法では花き類を取扱品目に加えました。その結果、私企業や専門農協などによる従来の花き市場は、昭和49年に地方卸売市場を名乗るようになりました。ちなみに、その数は235社に及んだのです。
市場法改正の目途には、もうひとつ、市場の再整備がありました。
そのため、5年ごとに「卸売市場整備計画」を策定し、それに従った市場整備が計画されていきました。

青果市場などで中央卸売市場の再整備を計画する一方で、花き市場においては、地方卸売市場を統廃合し、中央卸売市場に整備する計画が策定されていきます。