CHAPTER 2 – 花き市場の誕生
明治後期から大正時代になると各地に花問屋が誕生し、花屋さんの数も目立って増えてきました。花問屋経由の流通を変えようとする流れが生まれたのも大正時代のことです。
問屋流通は、価格形成が不明朗で、取引が不定期であり、支払いが遅いなどの欠点が指摘され、青果取引場と同じようにセリ取引主体の花き市場が必要だという認識が広がっていったのです。
その一方で、大正12年には中央卸売市場法が制定され、青果物や鮮魚などを扱う市場が政府による指導のもと、中央卸売市場として整備されていきました。その中央卸売市場法では、セリまたは入札による取引を原則とし、市場原理による価格形成を求めています。
この法律では、花き類を対象外としていますが、花き類の生産者も中央卸売市場の誕生に刺激を受け、セリ売りを主体とする市場の誕生を求めるようになっていきました。
しかし、当時の生産者は花問屋に多額の売掛があったこともあって、即、花市場を開設するようにはなりませんでした。
そのような時代に終わりを告げるきっかけを作ったのは大正12年9月1日の関東大震災です。
2. 日本で最初の花き市場関東大震災は多くの死者を出し、東京の下町を焼け野原にしました。花問屋も多くが被災し、需要も急減してその役割を果たせなくなる一方で、生産者は販売先を失うことになりました。
そこで温室生産者が中心となってまとまり、同年の12月、銀座に「高級園芸市場組合」を設立することになったのです。
この市場は切り花や鉢物のほか、ガラス温室で生産される高級野菜を取り扱い、取引方法はセリ取引を主体にしてスタートしました。
これが日本で最初の花卉市場ですが、生産者の出資による組合としてスタートしていることは実に興味深いことです。ちなみに、市場手数料は組合員が5分、非組合員が1割でスタートしています。
この市場は多くの生産者から支持され、大正13年以降それに刺激を受けて各地に花卉市場が誕生していきました。都内では、芝生花市場に続いて千住、日本橋、神田、下谷、上野、青山、渋谷、氷川、大森などの各生花市場が生まれていき、その多くが花問屋からの転校組でした。