CHAPTER 1 – 前史 (~明治時代)
明治時代に入ると、問屋や小売店などの産業の分化が急速に進んでいきます。
明治の初めの頃には隅田川河口付近の通称、花河岸と呼ばれるあたりに数件の花問屋があり、そこを経由して切り花が売られていたといわれます。その花問屋は今に続くものもありますが、花問屋は各々が売り子を抱え、花売りは問屋が指定する辻を売り歩いていました。
このように、当時の花問屋は西新井、堀切の生産者が持ち込んだ花を卸売りする業者であるとともに、花売り達の営業地域を仕切る元締め的な機能もありました。
同じように大阪や神戸、横浜でも明治の初め頃には花問屋が生まれ、花の小売店も既にあったといわれています。
当時の切り花は供花や生け花のお稽古用が中心であり、草ものの切り花に加えて枝ものが重要な商品になっていました。
切り枝は周辺の山野から切り出したものであり、また草ものの切り花も生産品に加えて山採りの品が重要な商品アイテムになっていたと推測されます。
横浜や神戸は外国人の居住地域になり、海外から輸入された草花が早くから販売されており、園芸の先進地になっていきます。
日本にはユリ類など園芸的に価値の高い野生植物が多く、在住の外国人の中にはそれらの球根をイギリスや米国に送り、大きな利益を得るようになりました。
そしてやがて、花き類の輸出入を行う商社が誕生します。
文久2年(1862年)に来日したイギリス人のC.クラマーが文久3年に設立したクラマー商会や、明治4年(1871年)に来日したアメリカ人のボーマーが後に創ったボーマー商会などがその代表的なものですが、彼らは日本から多くの植物を欧米に輸出し、それとともに海外から洋種花きの導入に務めました。
また、暖房付きのガラス温室などもこの時代に導入されており、在住外国人や華族、皇族などに温室が普及していきます。
明治も中頃になると横浜植木商会(現横浜植木株式会社)が花き類の輸出入を目的に設立され、新井清太郎商店などが後に続いて、その中のいくつかの会社は今に続いています。
外国人による貿易会社はやがてその役割を終えることになりますが、洋種花きや温室の普及など、彼らの力によるところが大きかったのです。
ちなみに、いまの主要な園芸植物の多くはこの時代に導入されました。輸出用のユリ根などは当初、山採りによってまかなわれましたが、輸出量が拡大するとともに球根生産が始まり、明治の終わり頃には各地に球根生産の産地が誕生しました。
テッポウユリの自生地でもある沖永良部や鹿児島県内、貿易商が集まる神奈川や、貿易商が生産を委託した千葉(房総)など、現在の主産地の多くが球根生産からスタートしています。
切り花や鉢物類の消費は、在住外国人や華族などの富裕層を中心に広がりましたが、明治時代は富国強兵政策もあってか、日本人の生活レベルは年々向上し、それとともに花の消費量も確実に拡大していきました。しかし、明治時代の花き産業は球根の輸出や種苗導入が中心であり、ガラス温室もごく一部の富裕層に普及するのみだったので、一般大衆向けの生産・供給が始まるのは大正時代を待たなければなりません。